「ドーダ.・シンドロームの話」2

「ドーダ」の話から(2)は始まるのである。
「ドーダ」とは「ドーダすごいだろう」の
「ドーダ」である。「ドーダ」解ったか?
なにを言いたいのかサッパリ分からないだろうこれでは、第一書いてるほうが判らないんじゃ読むほうが判るはずがない。
あらためて、東海林さだお氏のご紹介から。
東海林さだお氏の本名は、しょうじさだお(庄司禎雄)漫画家・エッセイスト。
「アサッテ君」を読んだことがないという人は少ない。
グルメエッセイは特に著名。
「ドーダ」は「もとコロッケな日本語を」に「ドーダの人々」として登場する。
Part(3)までおよそB6判52ページもあるのを「ざっと」紹介するのは至難の業(わざとむずかしい業を使ってる)だが、
終わった後で「ざっとこんなもんだドーダ」を言いたくてわざわざ・・・
「淳い、くどい、くどすぎる。非難の声がざわざわ」

およそ、そもそも喫茶店・ビアホール・居酒屋・レストラン・料亭・スナック・バー・クラブ・キャバレーなど、
いわゆる水商売と言われている店で交わされている会話の八割は自慢話であると言われている。
と東海林氏は言っている。
ちなみに、水商売とは「客の人気・都合により収入が左右される商売。料理屋・バー・キャバレーなど」(スーパー大辞林)
この場合、客同士の会話が多いのは前半であり後半は主に客と店主・店員(ママとか、チーママとか、
ホステスとかホストとか、女将とかお・お・おかみ)との会話がある。
挨拶は別として、別といっても挨拶はその場でするのが良い、一番いやな挨拶は「あとで挨拶に行くからな」という挨拶である。
「あーら、やーさんいらっしゃいませ」
やくざ・さんがいらっしゃたわけではない。
矢島さんが行くとこう迎えられる。
馬場さんがいけば「あーら、バーさんいっしゃい」、根本さんがいけば「あーら、ネーさん」、遠藤さんがいけば「あーら、塩酸」
「変換」の間違いはよくあることだ。
「ドーダの館」は銀座のクラブである。
「あーら○○センセ、お久しぶり」
有名作家のご来店である。
熱いおしぼりでおでこを拭きつつ、
「寝てないんだ」
と、憮然としてつぶやくセンセイはイショケンメイにヨイショされる。
売れっ子のセイセイは現行の依頼が多く、だから原稿を書くのが忙しい。
なのになぜ銀座まで行って水割りなど飲むのか。
梅爺が銀座のクラブで飲むなどということはないけれど、仮に行ったらせいぜい言われるのは
「もたもたしていつまでも書き始めないからそうなったんでしょう。考えがまとまらないんだから」
まわりくどいけれど早い話が「寝てないんだ」
この六文字のなかに「俺は売れっ子作家だから原稿依頼が多くて仕切りが迫ってるんで
寝てる暇もないんだ、ドーダエライダロウ」の四十五文字が隠されているのである。
だれだ文字数を数えたのは!
わかりやすく市場での会話で行こう。
「どうだ売れてるかい?」
「今日は悪いね、ウチはもう終わりだよ。(お前の店とは違ってもう売切れてしまってるよ。
注文が多くていくら仕入れても間に合わないくらいだ。ドウダスゴイダロウ)」

前号では鹿島茂氏の「ドーダ近代史」についても触れることにしたのだがこれも、B6判396ページの大作である。
対策としては「つまみ食い」しかない。
と思って念のため・例によって「スーパー大辞林」
摘まみ食いとは「①食べ物を箸(はし)を用いず指先でつまんで食うこと。②こっそり盗み食いをすること。
③公金などを少しずつ不正に使うこと。④夫婦や恋人以外の異性とたわむれに関係をもつこと」だそうだ。
ふーん、そうだったのか、ふむふむ。

鹿島氏に言わせると「ドーダ理論」は世界最強のグランドセオリーだ。
つまりこの理論をつかえば人類社会の全ての問題を解放する(ときはなす)ことができるということだ。

「ドーダ学というのは、人間の会話や仕草、あるいは衣服や持ち物など、
ようするに人間の行うコミュニケーションのほとんどは、
『ドーダ、おれ(わたし)はすごいだろう、ドーダ、マイッタカ?』
という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析していこうとする学問である」
「自慢じゃないけど俺だってこれども学校の成績だけは良かったんだよな」
まさかこんな単純な自慢なんて言うやつはいないだろうと思うけれど、でも聞いた事あるんじゃない。
「自慢じゃないけど・俺だって・これでも・成績だけは」
否定したり、条件をつけたりして「ドーダ」※「ドーダ」=(ドーダ)の自乗と昔は言ったけど
今は二乗というのかな、どうゆう事情で変わったんだ。

「きちんと学校へ行って勉強したことないんだよな俺は、だけど図書館なんかへ行ってさ、
まー独学ってゆうわけさ、列車の中で新聞を売りながら実験室を・・・」
なんでここでエジソンが出てくるんだ。
1300以上の発明をした発明王が!

いずれにしてもごく単純な自慢から、それがどうしたの私なんか学校の成績など良くなかったけど苦心惨憺・漱石枕流なの
負け惜しみじゃないけれどこれが私の人生なの。
「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ、咲き乱れるの」
「地図さえない それも人生ドーデススゴイ人生でしょう」
「陰性といったら「陰陽五行占い」とか「陰陽思想」とかを「引用しそう」になるが難しい話はしても無理だから、
えっ、なにが無理なのか?
つまりそのウメジジイに高尚な話をしろといっても無理だからこうしよう。

危ないところだった。
口の利き方には気をつけよう。
そうだ「気をつけよう」「気をつければわかりやすいんだ」
「ドーダ」には「陽気」なドーダと「陰気」なドーダがあるんだ。
ドーダ気がついたか?
これが個人差はもちろんのことあるのだが、時代的にも変化があるのである。

「ドーダ」を分類すると「陰と陽」とに分けるものと「内と外」に分けるものがあることを加島氏は指摘している。
話はいよいよ佳境に入るわけであるが時間切れである。
ヤバイ!
エーッ、紙数切れである。
次回またのお楽しみを。

2008年10月10日発行 From Tsukiji57号掲載

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このページは、adminが2009年5月19日 10:18に書いたブログ記事です。

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